淀殿は追い詰められていてうつ病たった!?

歴史を分かりやすく解説をすることで人気の歴史学者 磯田道史さんがTV番組「林修の初耳学」に出演して、豊臣秀吉の側室であった淀殿はうつ病だったのではないかと解説。

古文書の中に医学書が残っていて出版されているそうです。戦国~江戸時代のカルテ『医学天正記』を読むと、戦国武将の豊臣秀吉が風邪を引いていた事や、織田信長が高血圧と診断されていた事、徳川家康は胃ガンで亡くなった可能性があるなどカルテを見ると推測出来るそうです。

その中で、磯田さんが注目したのは「秀頼公御母 御年三十余」と淀殿の事がかいてあるカルテ。さらにカルテを読むと現代でいう「うつ」とかいてあり、ご飯が食べられない、めまいがするなどと書かれてあるんです。磯田さんの解説によると淀殿はうつ病だった事がわかると言います。

淀殿は、織田信長の妹であるお市の方と浅井長政の長女で、豊臣秀吉の側室となり豊臣家の跡取り豊臣秀頼を産んだ女性です。淀殿のうつ病が豊臣軍と徳川軍が戦った天下分け目の大阪冬の陣の勝敗を左右したと言うのです。

1615年(慶長二十年)5月8日、大坂城が炎に包まれ落城し、豊臣秀頼と淀殿母子は自らの生命を絶ち豊臣家は滅亡しました。その時、淀殿がうつ病になっていなければ、日本の歴史は大きく変わっていたかもしれないのです。

磯田さんの解説によると、淀殿は幼い秀頼を抱えて徳川との間で非常に精神的に追い詰められいた、そんなうつうつとした時期に、大阪城を徳川軍に包囲されて女性の身で戦わなくてはならなくなり、さらに徳川家康が大砲で攻撃してさらに追い詰めていきます。

そこで、うつ病で気持ちが弱っていて淀殿は、「大阪城の堀を埋めるなら大砲をやめる」と言う徳川軍の誘いにのってしまいます。大阪城の堀は埋められ、その結果、大阪城は落城してしまいます。

もし、淀殿がうつ病ではなく意気軒昂でそれに応じなければ、史実では、2年後には徳川家康は病死しているし、徳川家康の息子秀忠もさほどの人物ではない、さらに、徳川秀忠の妻は自分の妹の江なので大阪の豊臣家は残った可能性があり、そうなると日本史が変わっていた可能性があると言うのです。

そうなると、現在の首都は東京ではなく大阪だったかもしれないと、磯田さんは解説していました。もし、首都が大阪だった日本はどんな国になっていたでしょうね。そう考えなら歴史の話を聞くと面白いですよね。